考えたり、感じたり、調べたり、教えたりする脳の働きは、
人間が生きていくうえで欠かすことのできないものです。
これらの働きが「自動的に」身についていくのかというと、
そうでもありません。

脳が発達していくためには「外部からの刺激」が必要なのです。

脳の細胞が、ただ単に「生きているだけ」の状態であるのと、
「成長を続けていく」のは違うのです。


今ここに「生きた」脳の細胞を持ってきたとしても、
それ自体は何の意思も持たないし、お友達になろうというのも無理な話です。
当然、「教育」を施すことも不可能です。

当たり前ですが、脳は、人の頭の中に入っている状態でなければ、
その機能をまったく発揮することができません。


さて、少なくともこのブログを読むことのできるあなたは、
生きた脳がきちんと頭の中に納まっている状態なのでしょう。

脳の働きがよいか悪いかについては、ここでは考えないことにします。


あなたの脳が、今までどのようにして発達してきたのかを
考えてみてください。

古くは母親の胎内にいたときから、何らかの「刺激」を受けていました。

「刺激」は五感に捉えられ、脳によって処理され、分類されていきます。


目を開けていれば、何かが「見える」でしょう。
この、「見える」ことが、視覚に対する「刺激」です。

耳をすませば、何かが「聞こえる」でしょう。
この、「聞こえる」ことが、聴覚に対する「刺激」です。


「刺激」に対する脳の反応には個人差があって、
これが「個性」というものを生じさせています。

反応の仕方が少しずつ違うから、人には多様な個性があるのです。


もう一つ重要なのは、脳は刺激を「記憶」するということです。

「記憶」した刺激は、再度、受けなくても、脳の中だけで処理されて
考え方や行動に影響を与えることができるのです。

「教育」というのは、この部分に対して施されるものです。


刺激は単一のものである場合もありますが、
多くは複合的なものであるため、一つ一つを分析することは
非常に困難である場合が少なくありません。

…にもかかわらず、多くの人は、「ごく自然に」「当たり前のように」
教育を受け、成長してきました。

「脳は非常に複雑な処理をしている」といわれて、
自分で意識をしてみても、いまいち理解することができません。

そうです。実態を十分に理解することができないくらい、
人間の脳は複雑にできているのです。


だから、まず大前提として、
「完璧な教育」はありえない
ということがいえます。

自分自身の脳さえ完全に理解できていないのに、
他人を教えるにあたって完全性を発揮できるはずがありません!

完璧な教育が確立されているのだとしたら、
世界のあり方はもっと違うものになっているはずです。

「教育」自体も常に「教育」していかなければならないのです。



どんな形であっても、「教育」を受けて「学ぶ」ことには意味があります。

「学校」だけが教育の場であるわけではありません。

その気になれば、ゲームの中で学ぶこともできます。


だからといって「現実で学ぶこと」を放棄するのを勧めているわけではありません。

人にはさまざまな事情や都合がありますから、
このような状況に陥っている場合がなきしにもあらず…。

もちろん、児童相談所や精神病院等の対応を重視する必要がありますが、
それが困難なのが現状です。


「素人判断」によって害をもたらすのも問題ですが、
「専門家任せ」で何もしなくなってしまうのも大問題です。


単なる「同情」や「哀れみ」で行動を起こすのではなく、
問題を「解決」するためにできることを行うようにしたいものです。