「ないこと」の証明は、「あること」に比べて極端に難しい。
という問題を簡単に考えてみましょう。
同じでない人がいるかどうかを調べるだけで可能です。
AさんとBさんを比較して、二人が同じではないことがわかれば、
この命題は誤りであることがすぐに証明されます。
(一人でも違う人がいれば、誤りであることが証明される)
同じ人がいるかどうかを調べなければなりません。
CさんとDさんを比較して、二人が同じではなかったとしても、
EさんとFさん、GさんとHさん、IさんとJさん、Kさんと………と、
すべての人を比較するまでは証明できないのです。
世界には何人の人がいますか?
そのすべてを比較することはあまりにも大変です。
不可能に近いです。
ここで少し考えてみてください。
すべての人について調べ尽くしたわけではないのに、
「この世には同じ人など存在しない」と断言できるのはなぜでしょうか?
個別の事例から一般的な原理を見出そうとする方法を「帰納法」といいます。
この論法による推理は、日常でごく自然に用いられていることに気づいていますか?
「日本の夏は暑い。7月も8月も暑くなるだろう」
「今日のマビノギはアップデートだ。だからメンテナンスは延長されるだろう」
「エンチャントはあらかじめ失敗しておいたほうが、肝心なときに成功しやすい」
どうでしょうか。
冷夏の影響で6月や9月よりも気温が低くなる可能性があります。
アップデートでも30分早くメンテナンスが終了したことがあります。
失敗が続くことがあるし、成功が続くこともあります。
帰納法における推理というのは、個々の事例だけで判断し、
あたかも法則や原理、常識があるかのような考え方をしているため、
誤りを犯しやすいものです。
それでも、「この世には同じ人など存在しない」といいます。
「明日、自分とまったく同じ人に出会う可能性はある」といわれても、
そんなばかな、と思われることでしょう。
「いないこと」など決して証明されていないのにもかかわらず、
「明日、自分とまったく同じ人に出会う」のはおかしい、ありえない。と思うでしょう。
ここで前提としている考えのことを「自然の斉一性」といいます。
このへんの詳しいことは哲学や論理学を調べてみてください。
なかなか興味深いことがわかるかもしれませんよ。
という問題を簡単に考えてみましょう。
人はみな同じである…誤り
「人はみな同じである」という命題が正しいかどうかを証明するには、同じでない人がいるかどうかを調べるだけで可能です。
AさんとBさんを比較して、二人が同じではないことがわかれば、
この命題は誤りであることがすぐに証明されます。
(一人でも違う人がいれば、誤りであることが証明される)
人はみな同じでない…?
「人はみな同じでない」という命題が正しいかどうかを証明するには、同じ人がいるかどうかを調べなければなりません。
CさんとDさんを比較して、二人が同じではなかったとしても、
EさんとFさん、GさんとHさん、IさんとJさん、Kさんと………と、
すべての人を比較するまでは証明できないのです。
世界には何人の人がいますか?
そのすべてを比較することはあまりにも大変です。
不可能に近いです。
ここで少し考えてみてください。
すべての人について調べ尽くしたわけではないのに、
「この世には同じ人など存在しない」と断言できるのはなぜでしょうか?
個別の事例から一般的な原理を見出そうとする方法を「帰納法」といいます。
この論法による推理は、日常でごく自然に用いられていることに気づいていますか?
「日本の夏は暑い。7月も8月も暑くなるだろう」
「今日のマビノギはアップデートだ。だからメンテナンスは延長されるだろう」
「エンチャントはあらかじめ失敗しておいたほうが、肝心なときに成功しやすい」
どうでしょうか。
冷夏の影響で6月や9月よりも気温が低くなる可能性があります。
アップデートでも30分早くメンテナンスが終了したことがあります。
失敗が続くことがあるし、成功が続くこともあります。
帰納法における推理というのは、個々の事例だけで判断し、
あたかも法則や原理、常識があるかのような考え方をしているため、
誤りを犯しやすいものです。
それでも、「この世には同じ人など存在しない」といいます。
「明日、自分とまったく同じ人に出会う可能性はある」といわれても、
そんなばかな、と思われることでしょう。
「いないこと」など決して証明されていないのにもかかわらず、
「明日、自分とまったく同じ人に出会う」のはおかしい、ありえない。と思うでしょう。
ここで前提としている考えのことを「自然の斉一性」といいます。
このへんの詳しいことは哲学や論理学を調べてみてください。
なかなか興味深いことがわかるかもしれませんよ。