物事のある一部分を見たとき、それが全体とは相容れないというのはよくあります。
一部分や個別の事例から、全体的・一般的な原理を引き出すような方法を帰納法といい、
誰もが日常生活の中で自然に用いている論法なのですが、
しばしば「自分にとっての常識」に基づいた考え方をするために、
誤りを犯しやすいという特徴があります。
新品でも、折り曲げられたものでも、一万円札は一万円札です。
現行の紙幣である限り、新品だからといって価値が高いことはありません。
小さなことに気を取られて、全体を見通せなくなってしまうことを
「木を見て森を見ず」といいます。
ところどころに枯れた「木」があっても、全体では「森」としての機能を維持しているのに、
その枯れた木だけを見て
「この森は終わっている」
と判断するのが、まさにそうです。
これほど極端な考え方をする人はいないかもしれませんが、どうでしょうか。
日常生活の中で、「木を見て森を見ず」のような状況に心当たりはありませんか?
もちろん私も間違いを犯すことはあるし、人に誤解を与えたり、
不快にさせたりすることもあります。
何度もあるし、これからもあるでしょう。
どんなに注意していても、完全に防ぐことは誰にもできないのです。
一人一人が「木」で、それが集まって「森」になっていると考えれば、
木がなければ森はありえないものだということがわかり、
全体の展望を損なうことなく、個別の事例にも注意を払うことができるはずです。
この点も前回説明したように、コミュニケーションというのは
送る側だけでなく、それを受けて読み取る側の能力でもあるということと同じで、
ただ表現力を磨けばいいというものではなく、理解力も必要になってくるのです。
一部分や個別の事例から、全体的・一般的な原理を引き出すような方法を帰納法といい、
誰もが日常生活の中で自然に用いている論法なのですが、
しばしば「自分にとっての常識」に基づいた考え方をするために、
誤りを犯しやすいという特徴があります。
新品でも、折り曲げられたものでも、一万円札は一万円札です。
現行の紙幣である限り、新品だからといって価値が高いことはありません。
小さなことに気を取られて、全体を見通せなくなってしまうことを
「木を見て森を見ず」といいます。
ところどころに枯れた「木」があっても、全体では「森」としての機能を維持しているのに、
その枯れた木だけを見て
「この森は終わっている」
と判断するのが、まさにそうです。
これほど極端な考え方をする人はいないかもしれませんが、どうでしょうか。
日常生活の中で、「木を見て森を見ず」のような状況に心当たりはありませんか?
もちろん私も間違いを犯すことはあるし、人に誤解を与えたり、
不快にさせたりすることもあります。
何度もあるし、これからもあるでしょう。
どんなに注意していても、完全に防ぐことは誰にもできないのです。
一人一人が「木」で、それが集まって「森」になっていると考えれば、
木がなければ森はありえないものだということがわかり、
全体の展望を損なうことなく、個別の事例にも注意を払うことができるはずです。
この点も前回説明したように、コミュニケーションというのは
送る側だけでなく、それを受けて読み取る側の能力でもあるということと同じで、
ただ表現力を磨けばいいというものではなく、理解力も必要になってくるのです。